種まきのたとえ話

昨日種の記事を更新してから、
TVで種まきのたとえ話に関する教えを聴いたので、
今日はそれについて考えたいと思います。



種まきのたとえ話では、イエス様は四つの土壌について語ります。
(→[ルカ8:5〜15]


  1. 歩道:ふみつけられ、空の鳥がついばむ。
  2. 岩:一応芽がでるが、水がなく枯れる。
  3. いばら:育つが、同じく伸びたいばらが覆う。
  4. 土:育って、百倍の実を結ぶ。

に落ちた種(=御言葉)はそもそも地につかない。
その土壌は御言葉が届かない人のこと。
教会へ行ったり聖書を読んだりして、神様やイエス様の成し遂げた事を聞き、
それを認めるけれども、それらがその人に対して与える影響は何もない。
ただちに悪魔がその働きを奪うからです。


の土壌は、イエス様によると御言葉を「喜んで」受け入れさえする人。
ただし、長くは持たず、効果は刺激的なその一瞬だけ。
「御言葉に沿って生きる」までには至らないのです。
そのため実体験に基づく証、つまりは成長に必要な潤いがなく枯れる。
試みに遭った時も証がないので、対応の仕方が分かりません。


の土壌も御言葉を受け入れ、さらにクリスチャンとして歩み始める人。
ところがこの世に属する物事によって、道をふさがれてしまい、
クリスチャンとしては成熟しきらない。
世を捨てない限り、クリスチャンとして最後まで貫き通せないからです。


の土壌はイエス様の言うように、御言葉を固くたもつ人。
実を結ぶのはこの4の土壌だけ…。



ではでは、この世において、クリスチャンはの人のみでしょうか。


というのは、はともかくとして、
の人も、「御言葉を一旦は受け入れる人」であり、
教会には「御言葉を受け入れる人」が来ます。
教会に毎週通う人は、傍目にはどう見てもクリスチャン。
も、私たち人間の目では区別されないでしょう。
それできっと何の問題もない…この世においては。
そう、この世においては。


問題は私たちを待っている次の人生です。
この世においてさえ御言葉を日々求めるのは、まさにそのためのはず。
種(=御言葉)を受け入れるのであれば、ではなく、の土壌として。
これは当然の事だと言えませんか。



[ルカ8章]の種まきの話は、私たちクリスチャンが、
クリスチャンと名乗るにふさわしいか考えさせられます。
自分の生き方がイエス様の教えに沿っているか、見直ししないと…。





※今日はPastor、Benny Hinnの番組『This Is Your Day』から、
Benny Hinnの説教を参考にしました。