辛い時にする事

実はクリスチャンでいると、案外何もなく平和に生きられるというわけではない。


例えば今まで見えていなかった事が 目に付くようになる。
悪いことではないはずだけど、時々それに押しつぶされそうになる。


それに、神様に愛されていても葛藤はなくならないはずだ。
神様の愛を一番よく知っていたイェスでさえ(イェスだからこそ)、荒れ野でサタンと対決した。
神様を愛することは、悪と闘いつづけ なおかつ悪に勝ち続けること。
試みは神様への愛を示すためにある。


そういうわけで、クリスチャンとしての人生は
フワフワと何も考えなしでもなく、かといって沈み込んでいてもだめ。
どんな試みにあって地に叩きつけられても起き上り、神様を仰いで微笑む強さがいる。
だから、前向きに生きるのが大事だと思うのです。




それで、いざ辛く苦しい時には
どんな事が有効なのかという話。



過去にあった 「楽しかった事・うれしかった事」を数える。
思い出せる限り思い出して、一度数えてみると、
どれだけ自分が幸せか分かる。
嫌な事は思い出さない。
思い出しても水に流すか、忘れること。
これを続けると 人生ちょっと変わる。


クリスチャンなら数えるのは、
ただ「楽しかった事・うれしかった事」じゃなく、
過去に「神様がしてくれた事・与えてくれたもの」になりますが。
それによって 神様を信じるこころが養われるんだと思う。


嫌な事を流すのは同じ。
赦す、ということはとても大事。難しいけど。
それによって この世のしがらみを断ち切っていく。
生身の人間として世に生きるのでなく、
肉から離れた、精神によって生きる練習をする感じ。
この世での生はいつかおわるけど、その先の永遠のいのちを見据えると必要なこと。


天の王国に住むためには その国のルールによって、その国の生き方を習得しなくてはいけない。
赦す事 これはその中の条件のひとつみたいなもの。



ちなみに、
私たちはみんな、イエズスの苦(十字架上での死)があるために
自分達の罪を赦してもらえる権利が与えられています。


私たちは罪を洗われ新しい人間として迎えられる、
つまりは世から切り離されて生きる権利をもらえるのに、
自分が何か(または誰か)を容赦せず、世のしがらみを引きずるままであるなら、
その自我は世からは離れきれていないので、矛盾する。


自分が何か赦すことは、
天に住まわせてもらう過程において、義務でもあると言えると思う。


「・・・私たちが、私たちに悪を働く者を赦すように、私たちの罪も赦してください。」
(主の祈り。イエズスが使徒達に「祈り」の仕方を説いた時の、祈りの模範、テンプレート。)