シミ

つい、昨日のことです。


ふとしたことにイライラしてしまい、失敗が失敗をよぶように、
そそっかしい事をしでかしました。
白いカーペットに、ドレッシングをぶちまけてしまったのです。


すぐに、黒っぽい大きなシミが広がって、「しまった」と思いました。
いそいでタオルペーパーでふき取りましたが、
ドレッシングの色はもちろん染み込んだまま。


その後も、落ち込んでいる私に代わり、
夫が一生懸命クリーナーで拭いてくれましたが、
いくら拭き取ってもタオルペーパーは茶色く汚れ、
シミは全然落ちません。
本当にがっかりして、イライラしていた自分にまた腹が立ち、
悔しくてしかたありませんでした。


聖書にはあれだけ、すぐに怒らないようにと書かれているのに、
いざという時には我を忘れたかのようにふるまう自分が、
恥ずかしいなぁと思いました。


でも、昨日の落ち込んだ事を、今日は引きずりません。
そのためにディボーションで私をひっぱり上げてくれたのは、
やっぱりイエス様です。
私には自分にがっかりする権利もきっとないのかもしれない、
と思った今日のディボーション(WOMEN’S DEVOTINAL BIBLEから)を
以下に引用します↓





(今日の文章→ [ローマ3:9〜27] 今日の一節→[ローマ9:22]


これらの節が伝えているのは、「神様に見合うほどの正しい者は誰もいない」ということです。神様の視野において、茶色のシミを在りありとかかえたまま、それが見過ごされるよう望むことなど、とてもできません。そして最後まで自分ひとりで乗り切れると思っているのは、神様を自分サイズに小さくしてしまった人たちだけです。残念ながら神様は神様、神聖そのものの完全体です。これは悪報であると同時に、朗報でもあります。


神様に対して、どうしてあなたや私のような人間が正しいとされ得るのでしょう?必要な義は、どこでどうして身につくのでしょうか?神様の言うところの義は、無償で([ローマ3:24]より)あり、これまでずっと公開されている([ローマ3:21]より)のです。それは誰であれ、キリストであるイエスを信じる人全て([ローマ3:22]より)が対象とされており、簡単に言うと、あなた自らが取らずには、手元に受け取れない贈り物であるということです。


神様は、そこに罪がないのだというふりをすることはできない。私たちをご覧になり、私たちに代わって言い訳をしてくれるわけではない。どうにかして、罪が私たち自身に対し持っている束縛力を解きはなつ必要があったのです。だから神様はイエスをこの世によこし、私たちは助け出された…イエスの業により、罪からあがなわれた([ローマ3:24]より)のです。イエスは、罪に対する報いをあがなうためのいけにえとして死に([ローマ3:25]より)、イエスを信じ、そのあがないを受け入れる者に対しては偉業を成し遂げました…私たちを正しいもの、としてくれた([ローマ3:24]より)のです。


あなたがどうしても正当化してもらわなければならない、というならそれは何か間違っています。規範に見合っていないからです。私たちを正当化する上で、神様は私たちの罪の処理をしてくださるのですが、そこでキリストであるイエスの義を与えてくださるという、さらなる偉業を行われます。これはまるで、私たちにぴったり見合う、また王の御前に出るのに相応しい、真新しい衣を受け取るようなものです。では、何がまだ欠けているのでしょう?「義」です。イエスがくださったのは?「イエスの義」です。私たちを抱え込むからといって、イエスはその義の規範を変えたりはしませんでした。イエスは、その規範に一致するよう私たちを変えたのです。


あらためて自分よく見つめ直してみましょう。贈り物を受け取る資格はあるでしょうか。いいえ、そうでなはくこれは神様の恵、ご厚意であり([ローマ3:24]より)これによって私たちの人生にすばらしい変化がもたらされるのだということ。そのように素敵な贈り物を差し出され、人はどうすればよいのでしょうか?ありがたく感謝して、受け取ればよいのです。あなたが何者であるかを、また誰の衣をまとっているのかを思い出しなさい。どのような経緯で、キリスト、イエスに属する者となったのかを思い出しなさい。「良い報せ」を分かち合うのです。


(同時に読んでください→[マタイ22:8〜13、ティトス3:3〜7]




今日の私にぴったりのディボーション…。
神様が話しかけてくださっていること、私には分かりました。



今日、もう一度しっかりカーペットを拭きました。
カーペットのシミはやっぱり完全にはなくならず、
ぼんやりとした影を残しています。


私は神様がご覧になっている眺めを思いました。
それからイエス様が私のためにしてくれた事、
差し出された新しい服と、そして今の自分を思いました。