イエス様についての事実

復活祭を迎えるにあたり
キリストであるイエスについて


どんな時にも、イエス様が私たちのために成し遂げた事について改めて思い出し、熟考するのは良いことです。
イエス様が受けられた事というのは、おそろしく酷い仕打ちでした。それでもイエス様は復活させられました!
そして私たちは自由の身となったのです!!




イエス様の死 ― 60秒間ドリル
今から60秒の間、やっている事を全て脇へおき、この機会を活用しましょう。


☆(科学的面から迫る)イエス様の死☆
33歳の時、イエス様は死刑の判決を受けました。
当時、「はりつけの刑」は最悪の死でした。最も酷い罪人のみが、「はりつけの刑」を言い渡されていたのです。


それでもイエス様の場合にはさらに酷いものでした。それはイエス様が他の死刑囚のように縛られてはりつけにされたのではなく、その手と足に打ちこまれた釘によってはりつけられたからです。それぞれの釘は15cm〜20cmに渡る長さでした。
釘は、イエス様の手首に打ち込まれました。よく絵画に描かれるように、手のひらに打ち込まれたのではないのです。
手首には肩へと伸びる腱があります。ローマ憲兵は、手首に釘を打ち込めばその腱が裂けて機能しなくなるのを知っていました。そうして身体を支えるため、イエス様に無理矢理背中と腰を使わせ、イエス様が十字架上でも息が出来るようにしたのです。
イエス様はその両足を一緒に釘打たれました。
したがって足に打ち込まれた一本だけの釘によって、身体全部を支えるよう強いられたのです。イエス様は痛みのため、足で身体を支えるのは長くはもちませんでした。そこで無理矢理背中を反らすか脚を使うかして、ただ呼吸を続けさせられていました。
その苦闘、痛み、苦難、精神力を、想像してみてください。


イエス様はこの現状を3時間以上も耐え忍ばれました。3時間以上です。そんな苦痛を想像できますか。
イエス様が亡くなる数分前に、その出血は止まりました。傷口からはただの水が流れ出ていました。
広く知られているイメージでは、イエス様の手、足、そして槍によるわき腹の傷口を思います。しかし、イエス様の身体には他にもたくさん傷がつけられたのを覚えていますか。大きな釘を打ち込まれた手首、重ねられ、土踏まずに釘を打ち込まれた足、ローマ憲兵の槍により突き刺されたわき腹。そして釘や槍より以前にも、イエス様は鞭打たれ、暴行を受けました。鞭打ちは容赦なく、イエス様の身体の肉を裂きました。暴行は本当に酷かったので、そのお顔は引き裂かれ、髭は顔から引き剥がされていました。いばらの冠(5〜8cmもあるとげ)は頭皮を深く突き刺していました。
このような拷問に、ほとんどの人間は耐えられないでしょう。
イエス様は流すほどの血がもう残っておらず、水だけが傷口から流れ出ました。
人間の身体には、大人であればだいたい5リットルほどの血を保っています。イエス様はその5リットル全ての血を流しきりました;イエス様は合計3本の釘を打ち込まれ、いばらの冠が頭に、その上ローマン憲兵に槍で胸を突かれていました。


これらは全て、つばを顔に吐きかけられ、石を投げられ、自らの十字架(イエス様の手が打ち付けられた横の梁は、重さ約30kmにもなりました)を背負って2km運んだ屈辱にはまだ言い及んでいません。
あなたが神様へ自由にアクセスするための権利を手にし得るため、イエス様はこれを経験しなくてはならなかったのです。そうすることで、あなたの罪が洗い流される事が可能になる。それには例外無しに、全ての罪が対象です。



この事を決して見落とさないように…「イエス様はあなたのために亡くなりました」


これを今読んでいる人。
イエス様が誰か他の人たち(教会へ通う人々、牧師・司祭・主教たち)のためにだけ死んだんだ、などと思い込んではいけません。イエス様はあなたのために死にました。「イエス様のみが世界の救済手段である」という事実・現実を受け止めましょう。


神様はあなたにだけに定められた特別な計画をご用意しておられます。あなたを救うためにイエス様が通られた道について、すべての友人とこれを分かち合いましょう。
神様があなたを祝福なさいますように!



あなたの生活における神様のお力を感謝することに、時間を割いてください。そうすれば神様は喜ばれます。マタイ10章32、33節において、こう言われました:「それゆえに、だれでもわたしの中で*1、人々の前でわたしを言い表す者は、わたしもその人の中で、天におられるわたしの父の御前でその人を言い表す.しかし、だれでも人々の前でわたしを否む者は、わたしも天におられるわたしの父の御前で否むであろう。




<宣言>
はい、私は主を愛します。主は私の命の源であり、私の救い主です。昼も夜も、主は私を生かし、お守りくださいます。主無しでは、私は取るに足らない、何でもない者ですが、主と共にあれば、「わたしは、わたしを力づけてくださる方の中で、いっさいの事柄を行なうことができるのです。」(/フィリピ4:13

*1:主イエスと結合する時